ログイン──まぶしい。
目を開けた瞬間、美佳は自分がどこにいるのか分からなくなった。足元に広がるのは、どこまでも白い床。その上に散らばる無数の断片─│写真、日記、教室、駅のホーム、アンケートの画面。「ここは……?」声に出すと、自分の声がやけに遠く響いた。重力も温度もない空間。ただ、記憶だけが散らばっていた。「ようこそ、“L-001記憶層”へ。」不意に背後から声がした。振り向くと、そこに立っていたのは──朝倉純だった。「純……くん?」美佳は言葉を詰まらせる。藍都学苑時代、誰よりも穏やかで、優しい眼差しを向けてくれた少年。その姿は、あの頃のままだった。「君の記憶が作り出した、ぼくの像さ。本物のぼくじゃない。」<静まり返った旧病院の廊下に、足音だけが反響する。 さっきの通話の余韻がまだ胸を締めつけ、美佳は深く息を吸った。 「橘誠二……聞いたことがあるのか?」玲が純に視線を向ける。 純は短く唸り、目を伏せた。 「名前は、知ってる。だが……ここで話すべきことじゃない」 その一言で、場の空気は一層張り詰める。玲は不満げに眉をひそめ、翔はただ無言で壁の落書きを見つめていた。 「純くん、知ってるなら教えてよ」美佳は堪えきれず問い詰める。 だが彼は首を横に振った。 「下手に口にすれば、俺たちの動きが読まれる。あいつは、そういう男だ」 「……やっぱり知ってるんだね」美佳の声はかすれた。 彩音の残した鍵を握る手に、汗がにじむ。 沈黙を破ったのは翔だった。 「“橘”って名は、藍都学園都市じゃ珍しくねぇ。だが、誠二……それは、都市設計局の中枢にいた技師の名前だ」 「都市設計局……?」美佳が繰り返す。 「この街を造った連中さ。藍都学苑も、LAPISの本部ビルも……全部、あの局が手掛けた。十数年前に事故で姿を消したって聞いてたが」 「消えた人間が、今さら何を?」玲の声には苛立ちが滲んでいた。 純はしばらく沈黙した後、低く告げた。 「……誠二は生きてる。俺は、直接会ったことがある」 全員の視線が純に集中する。 「いつ……どこで?」美佳が震える声で問う。 「三年前だ。LAPISの研修で。彼は“表の記録”では存在していないはずだった。けど──確かにそこにいた」 息を呑む音が重なった。
藍都学園都市の片隅にある旧病院。廃墟の匂いは、湿った石と鉄錆の重たい気配を漂わせていた。 美佳は、胸ポケットに忍ばせた銀色の鍵をそっと握りしめた。七海彩音から託されたそれが、今ここで意味を持つ瞬間を待っている。 「こっちだ、階段が残ってる」 純が懐中電灯を掲げ、暗がりを切り裂くように進んでいく。玲と翔も後に続き、慎重に瓦礫を避けて歩いていた。 その時だった。 ──ブゥゥゥン……。 美佳のスマホが震えた。ディスプレイには「非通知」。背筋に冷たいものが走る。 「誰だ?」と純が振り向く。 美佳は小さく息を呑み、恐る恐る通話ボタンを押した。 『……やっとここまで来たのね、美佳さん』 若い女性の声。記憶の奥で弾かれたように、美佳は立ち止まる。 ──あの時だ。まだ何も知らなかった頃、突然かかってきた謎の電話。 「……あなたは……」 『忠告したのを覚えてる? “そのアンケートは選んではいけない”って』 冷たい声の奥に、切実な響きがあった。純や玲が怪訝そうに耳を傾ける。 『その“鍵”……大事にしてるわね。けれど、覚えておいて。あれは扉を開けるためだけのものじゃない。』 「扉……?」美佳は思わずつぶやく。 『もし使い方を間違えれば、藍都学園都市そのものが崩壊する。』 緊張が走る。玲の顔色がさっと変わり、翔が美佳に視線を送る。 「お前……誰なんだ」純が声を荒げた。 だが受話器の向こうの彼女は、静かに言葉を重ねた。 『橘誠二に気をつけて。彼は真実を隠すためなら、どんな手段でも使う。』
夜の藍都学園都市は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 ネオンが輝く中心街から離れ、旧市街の奥へと向かうと、まるで時間が止まったような空気が漂っている。 その果てに、かつて廃院となった旧藍都病院が影を落としていた。 「ここが……」 美佳は言葉を飲み込む。 巨大な建物は長年の放置で外壁が黒ずみ、割れた窓から冷たい風が漏れていた。 廃墟というより、都市の“記憶”そのものが凝縮された墓標のように見えた。 「入口は正面じゃない。地下の非常口から入る」 純が低く告げる。 東郷翔が先行し、周囲を警戒しながら手信号を送った。 玲も無言で頷き、携帯端末を操作してセンサーを無効化していく。 「本当に……入るんだね」 ユリはバッグの中に黒い鍵をしまい、美佳の方を見た。 「二つの鍵を揃えた以上、もう後戻りはできない。ここで決めるの」 美佳は肩に力を入れ、銀色の鍵を取り出した。 手の中で光がわずかに震えた気がした。 「……わかってる。ここまで来て逃げたくない」 一行は非常口の前に立ち止まり、重たい扉を押し開けた。 錆びた蝶番が軋む音が闇に溶け、冷気が足元を這い上がってくる。 階段を降りるごとに、空気は湿り気を増し、耳鳴りのような低い音が響き始めた。 まるで建物そのものが呼吸をしているかのようだった。 「感じるか、美佳?」 純が囁く。 「……うん。誰かに呼ばれてるみた
藍都学園都市の外れ、旧市街地に残るアパート群。かつての華やかさを失った路地を抜けた先に、宮下ユリはいた。小さな喫茶店のテラス席で、ホットコーヒーを前に、何かを書き留めている。「ユリ……」美佳が声をかけると、ユリは顔を上げた。変わらぬ穏やかな笑み──だが、その瞳は以前よりも鋭く、何かを試すような光を宿していた。「久しぶり、美佳。それに純くんも」ユリは手帳を閉じ、二人に向かい合う席を指さした。翔と玲も少し離れた席に腰を下ろし、周囲の様子をさりげなく監視している。「彩音から、鍵を託されたのね?」ユリの口調は、まるで全てを知っているかのようだった。美佳は頷き、バッグの中の銀色の鍵をそっと触れる。「ユリ……あなたも、持ってるんですよね。もうひとつの鍵を」純が切り込むように言うと、ユリはゆっくりと微笑み、コートの内ポケットから小さなケースを取り出した。開くと、中には黒曜石のように黒く光る鍵──形は美佳のものとほぼ同じだが、刃先の模様が微妙に異なっている。「これが、もう一つの“解錠媒体”。二つ揃えなければ、旧藍都病院地下の封鎖は解けない」ユリは視線を真っ直ぐに美佳へ向けた。「でも──あなた、本当にそれを使う覚悟はある?」その問いに、美佳は言葉を失う。使えば何かが変わる。玲が言った通り、二度と元の自分には戻れない。「……どういう意味?」美佳が問うと、ユリは少し俯き、声を落とした。「地下に眠っているのは、ただのデータや装置じゃない。“記憶”なの」「記憶……?」「私たちが生きてきた時間の“裏側”に隠された、もう一つの藍都学園都市の歴史。そこには、この街で起きた本当の事件の
霧の中を歩くうちに、駅前の喧騒は遠ざかり、ビルの影が深くなる。翔に案内されたのは、裏通りにある小さなカフェだった。表の看板は消えていて、営業中には見えない。ドアを開けると、かすかなベルの音とともに、低いジャズが流れてきた。カウンター奥の席に、有栖川玲が座っていた。白いブラウスに黒のタイトスカート、髪を後ろでまとめ、鋭い視線をこちらに向ける。「来たわね、美佳。……そして純も」玲の声は、変わらず冷ややかで、それでいて妙な安心感を与える。美佳は席に着くなり、ポケットから銀色の鍵を取り出した。「これが彩音から託された“鍵”。あなたが解析してくれたというデータと、どう関係してるの?」玲は目を細め、翔からデータカードを受け取ると、携帯端末に差し込む。カフェの壁に備え付けられたスクリーンに、幾何学模様のような暗号データが映し出された。「この模様……」純が眉を寄せる。「知ってるのか?」美佳が問うと、純はゆっくり頷いた。「旧藍都病院の封鎖システムの一部だ。俺もLAPISで見たことがある」玲が説明を続ける。「半分までは解読したわ。残りは、この“鍵”を使わないと開けられない。つまり、美佳、あなたが持っているその鍵は……単なる物理的な鍵じゃないの」スクリーンに表示された模様の一部が光り、鍵の形とぴたりと重なる。「この鍵は、病院地下の制御装置と共鳴して暗号を解除する“媒体”なの。しかも、使用できるのは一度きり」美佳は息を呑んだ。一度きり──つまり、使えばその時点で何かが決定的に変わってしまう。「……そして、もう一人。宮下ユリがこの暗号のもう片方の“鍵”を持っているはずよ」玲は視
藍都学園都市の駅前ロータリーは、昼間でも薄い霧が漂っていた。美佳は純と並んで歩きながら、コートの襟を立てる。「……本当にここで待ち合わせで合ってるの?」「間違いない。あいつの言う“別ルート”ってやつだ」純が低く答えた直後、ロータリーの端に立つ男が片手を上げた。黒いジャケットに無精ひげ、以前より痩せたように見える。「東郷……翔?」「よぉ、美佳。それに純も。お前ら、相変わらず危ないところに首突っ込んでるな」彼は軽く笑いながら近づくと、美佳の肩越しに周囲を素早く確認した。「ここじゃ話せない。ついて来い」路地裏に入ると、冷たい風とともに、かすかにオゾンの匂いがした。翔は足を止め、懐から薄いデータカードを取り出す。「有栖川から預かった。お前らの“鍵”に関係する解析結果だ」美佳の手が無意識にポケットの中の銀色の鍵を握る。純も黙ってそれを見つめ、眉をひそめた。「玲が……?」「ああ。例の廃墟で拾った断片データ、彼女が解読した。だが半分以上、暗号化されたままだ。ユリって女なら、解けるかもしれん」宮下ユリ──同窓会で一度顔を合わせたきりだが、印象は鮮烈だった。美佳の脳裏に、あの時の視線と意味深な微笑みが蘇る。「ユリは今どこに?」「……旧藍都病院の地下だ」その一言に、空気が重くなった。旧藍都病院──LAPISの記録上は十年前に完全封鎖されたはずの場所。翔は続けた。「俺が案内できるのは入り口までだ。中は……お前ら自身で確かめろ」美佳は鍵を握る手に力を込めた。